« 竹工芸の継承・革新(シンポジウム1) | トップページ | 竹工芸の継承・革新(シンポジウム3) »

竹工芸の継承・革新(シンポジウム2)

シンポジウムの公式の議事録ではなく、個人のメモなので発言主旨とずれた物、抜け落ち多々あります。ご了承の上お読みください。


4 大阪と関東の竹工芸について

コ:
竹あかり、竹自体の貢献には役にたたないが、地域で親しむ効果はあると言われている。
大阪の竹工芸についてはどうか。

田辺:
13、4年前に2年間別府で勉強した。色々な人に教えてもらい、作家活動に役に立っている。
大阪と別府が違うのは、文人志向ということ。文人哲学が江戸末期に日本に入り、初代竹雲斎の頃に煎茶道が普及。初代はその価値観の中で竹細工から工芸へ変換していった。
煎茶について明治の時、の知識がある人が少ない。竹雲斎、大阪の系列に詳しく、煎茶と竹工芸つながりがある。

煎茶道具が中心。花籠、茶と花は日常の中にあり重要であった。

ハンブルグの展覧会など、明治時代は輸出振興が盛んであった。神戸からドイツにたくさん輸出されていた。竹雲斎は20~30人の弟子をもち、工芸と輸出する弟子に分かれていたと聞いている。

2代の頃は、煎茶道薄れ、花籠中心。
文人志向はあり、花、茶、書という哲学は竹雲斎の芯になるところとなっている。当時は生活に花籠があった。

また、2代はたにまち(パトロン)に支援されていた。哲学を持ち、作って、それを買ってくれる人がいたのでアート作品を作れた。

3代の時代、バブルがはじけるまではそれでいけた。経済状況悪くなり生活環境が変化して花籠のみではつらくなった。今はアート作品。床の間に花飾る文化がなくなり、海外を中心に売っていくことになっている。

コ:
大阪と関東との違いは?

諸山:
美術展覧会は明治から東京中心。今もそう。東京の展覧会に出品する。民芸の展覧会も同じ。民芸にも竹はあるにはあるが、少数。昔ながらのものを今日的につくっているが、民芸展のショップでどれだけうれているか不明。

別府20年がピークとのこと、東京でも同じ。20年ほど竹が海をわたったことはないと○○は言っていた。
日本で暮らした外国人が国に帰るとき持ち帰った。軽くてかさばらないということで。目黒、大田区に竹林が豊かにあって生産があった。千葉、栃木にもあるが、大田区に文人がすんで作っていた。照明器具の「ヤマギワ」が声をかけて近藤○○さんが大田区で照明器具を作り続けた。今はやめている。
銀座にも竹屋があった。今は見かけない。日暮里、銀座、みどりやという籠屋がある。

大田原では竹工芸の展覧会がある。そこに並べてくるのは竹工芸として自立する意識の人がいるのかどうか・・・。
趣味的な感じである。産業的なものない。
ある程度のものは作れるがプロになる人はいない。趣味的なものはあちこちにある。生活にちかいもの生活の中にほぼみかけなくなる。

竹は生活とはかけ離れてしまった。竹はじゃまなものになっている。落ち葉でも嫌われて問題になる土地柄である。

コ:
田辺家は煎茶と結びつきあった。東京は飯塚琅かん齋の花もあったが、大阪と違うような需要あったのか。

諸山:
東京、神奈川、趣味的な物を自前でショップ出す。気安いクラフトとして普及させている。楽しんでするという広がりはある。

コ:
田辺さんのところでは、高島屋で展覧会をしている。関東と大阪で出るものは違うのか。

田辺:
大正から高島屋で4代にわたってやっている。竹雲斎の生活の中心。一年に1回個展をするのは大変。終わるとすぐ次の展覧会のものを作り出す。大阪は毎年の蓄積があり、人につくしてきたのでファンがいる。東京はそんなにしていないので、「いいもの」とか「望まれている」ものが売れる。
大阪は、花籠の文化。随分と違う。

<続く>


過去の関連記事

|

« 竹工芸の継承・革新(シンポジウム1) | トップページ | 竹工芸の継承・革新(シンポジウム3) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/41440/55731910

この記事へのトラックバック一覧です: 竹工芸の継承・革新(シンポジウム2):

« 竹工芸の継承・革新(シンポジウム1) | トップページ | 竹工芸の継承・革新(シンポジウム3) »