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光の中に神仏を見る

Sky20140910_ 中秋の名月の翌日の朝日は不思議な光をたたえていました。まるで雲の上に神様か仏様がおられるかのように感じました。
おそらく、平安の世に山奥で苦行を重ねた聖がこの光をみたならば、おそらく、光の中に観音様の姿を見たと思うほど神々しい光景でした。
通勤途中でその光景に出会った私は、電車の中で神について思索を巡らしました。

  *     *     *

日本の神は、シャーマニズムを源にする自然崇拝が原点。神々は万物に宿ると考え自然の中の様々なものに神の姿をみる。山折哲雄の本を読むと、自然豊かな地域では自然界の草木にさえも神をみる。しかし、厳しい環境では大いなる神にすがる一神教が生まれると書かれてあった。

日本人は巨木や巨石だけではなく、絵巻物などにのこる九十九神のように日常使う道具にも神を感じ、さらには貧乏神と貧乏にでさえ神の存在を感じた。
宗教に無関心と思われる現代人でさえ、パワースポットなどと自然の中に大いなる力の存在を感じている。

この原初的な宗教観が進んで偶像崇拝へと発展したのであろう。仏像やキリスト教の十字架、神社の社や神社、イスラムのモスク。人は何かしら祈る対象を求めるのだろうか。

しかし、その対象は神を信じない者から見れば、単なる石ころや人形にしか見えない。祈る人が”モノ”に神仏を感じるのは自分の中にある神の投影しそれに対して祈っているのであると私は思う。仏像等の偶像が尊いのは信じる神を投影できるものだからである。神への祈りはある意味、自分の心の中の対話であり、自身の決意を探る行為と言える。そしてその決意に向かって神の加護を信じて向かっていくのだ。

私は脳科学者の養老孟司氏が出す新書が出版される「○○の壁」と題するシリーズ等に、繰り返し出てくるテーマは「自分は外には存在しない」と言うことだ。自分探しというが、外を探しても自分は存在しない。全ては自分自身の中にあるということ。

詳細は氏の本を読んでもらいたいが、よくよく考えるとそれは般若心経が説く「色即是空」に通じるものがある。「ある」と思っているものは実は存在しないということ。物も肉体も苦痛や悩みさえも、全ては脳が作り出した幻影である。だから実体は存在しないということ。科学と仏教はここでつながっているのかという感じだ。

そういうことなのだ。自分の体は自分のものだと思っているが、そうではない。
生命の根幹に係わる部分で自分で自由にコントロールできない。心臓や内蔵の動き、日々再生される細胞も自分ではどうしようもない活動である。人は、生きているのではなく生かされているのだ。唯一コントロールできるものとして呼吸がある。禅やヨガではその呼吸により心をコントロールする。しかし、その呼吸ですら意識せずとも繰り返される。

万物に神が宿るというが、自然界のあらゆる万物だけではなく人間の中にさえ神が宿っているのではないかということだ。そもそも人間が自然の外にあるというのは西洋のキリスト教の概念である。人間は自然の一部であるという意識を日本人は取り戻す必要がある。

”自分”はもちろんのこと、”神仏”も外を探しても見つからないのではないか。全ては自分自身の中にあるのだ。外に見えたり感じたりするのは内部の神が外部のものに投影されているにすぎないのである。
そして、さらに言えば、万物にやどる神々は自分の中にだけあるのではなく、全ての人間の中にも存在するのである。

個人主義が蔓延し西洋化する日本にあっては、誰もが忘れかけている。自分だけがよければと言う意識。それは周囲の人々の内部に潜む神々への冒涜ではないのか。

自分の内部に存在する神の投影をパワースポットの木々や巨石ではなく、身の回りの人々の投影してみてはどうだろうか。生き神して扱うということではない。周囲の人に敬意を持って接することで、やがて、きっと何事もうまく動き始めるということだ。投影した神が何かを返してくれていることを感じることができるだろう。

私は朝日に立った、神々しい光から感じたこの事は、もしかしたら、啓示や悟りと言うものなのかもしれない。

(光を見た直後に記したメモをみて pomeraにて記す)

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