カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の記事

今年も1万人の第九に参加しました

今年も、「一万人の第九」に参加してきました。8月から仕事帰りにほぼ毎週1回練習してきました。リハーサル、本番は一日がかりなので疲れました。第九を歌いきった後に「蛍の光」を歌います。このとき、8月から練習してきたことが思い出されて込み上げてくるものがありました。

今年の第一部のゲストは槇原敬之さんでした。「世界にひとつだけの花」を歌いました。彼はとても楽しく、ムードメーカーだということを今回初めてしりました。とても楽しいステージでした。

ひとつ気がついたことがあります。彼のダンスやステージの仕草が何かに似ているというずっと思っていました。そして、わかりました。ディズニーランドの着ぐるみのミッキーマウスもしくはドナルドダックの仕草にとても似ているのです。ファンの方すみません。新しい歌もとても励まされるものです。本当に楽しいひとときでした。

第九も去年より少しだけ上手に歌えた気がします。
今年は、すごい席に座らせて頂きました。アリーナ席の前から2列目。しかもオーケストラのすぐ後ろ。ソリストがすぐそこで歌っているのです。この席の位置なら、テレビでの放送で一瞬映るかもしれません。緊張しました。(本番では疲れて第3楽章で意識が飛んでしまった瞬間がありましたが・・・。)

これで、一年の締めができた感じです。でも、第九のコンサートに年内に後2回行くことになっています。


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広島旅行2(厳島神社)

もう一カ所、宮島の厳島神社にも行きました。

 潮がひいていて、鳥居近くまで地面が見えていました。厳かな雰囲気を感じる神社です。もちろん、世界遺産にもなっているので観光客は多いのです。しかしそれでも厳かな威厳を保っていました。

 神社の境内には鹿が沢山いましたが、奈良公園の鹿よりも若干色が濃い茶色をしていました。そして、鹿せんべいなどもないためか、奈良の鹿より穏やかに感じました。中には野生の目を持ったしかもいました。

 紅葉も美しくまた来たいなと思いました。次回は是非、潮が満ちて、舞台が海の上にあるという様子を見てみたいと思いました。一日満喫しました。昼食に食べた「あなごめし」もとてもおいしかったです。見た目は鰻丼なのですが、鰻のようにくどくないく、あっさりとしています。鰻よりもおいしく感じました。

 さて広島のお土産といえば、紅葉まんじゅう。ガイドブックみてもお土産は紅葉まんじゅうばかり。色々なお菓子屋さんが作って販売しています。今回私は宮島にある古くからの老舗のまんじゅうを買いました。オートメーションで作っていないもの。そして、駅のおみやげ物店で販売していた「生もみじまんじゅう」を買いました。宮島で買ったまんじゅうは皮も柔らかく、餡もあっさりとしていてとてもおいしかったです。生もみじの方は、形は紅葉まんじゅうなのですが、餡がぎゅうひの様な餅に包まれ表面が茶色く焼かれていました。しっとりととてもおいしいまんじゅうです。広島へお立寄りの際には是非召し上がって下さい。

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広島旅行(原爆ドーム)

広島の原爆ドームに行ってきました。

旅行で広島へ行ってきました。夜に広島について翌日には宮島の観光という短い日程だったため、市内の観光はほとんどできませんでした。
 翌朝に、原爆ドームだけ見学に行きました。原爆のことは、学校や本や特集番組である程度、理解しているつもりでした。しかし、その現地に立つと、知識だけではない何か感じるものがありました。

 原爆ドームをみつつ、当時のことを思いつつ巡っていると、観光客に原爆についてのことを説明されている方がおられました。その説明のわかりやすさに話に引き込まれました。

 原爆の爆発は上空600mという説明に、火球が出現した位置を見上げ、想像してみました。その異様さにぞっとしました。そして爆心地に起こった状況を想像してみました。説明によると、3000℃を越える熱線が3秒続き、爆風、放射能が襲ったといいます。火が襲うのはずっと後とのことです。爆風の後は真空状態が起こり、黒こげの死体は目や内蔵が飛び出したといいます。また、そんな爆心地でも、鉄骨の頑丈なビルの地下にいて助かったという方もおられたということも運命というものを感じました。

 後の放射能で苦しむ人も多く、広島ではまだまだ過去ではないということを感じました。アメリカ軍は原爆とともに、観測機を投下し、写真をとり、また戦後も被爆者の傷跡や体調を調べ続けています。その写真はまるで囚人写真のようなものです。経過を調べるけれど、アメリカは治療をしませんでした。それは、アメリカは原爆はクリーンな兵器であることを主張しているため、治療することはそのことを否定することになるためだといいます。戦後30年間も継続してそ核実験の人体の影響を調査し、胎児への影響も産婆にお金を渡し、奇形や流産した胎児を集めていたといいます。さまざまな話はよくききますが、現場で聞く話ほど説得力のあるものはありません。

 広島という地に今なお存在する傷跡を感じました。

説明をされていた方のお母さんの手記「原爆手記」がホームページに掲載されていると紹介されていました。

説明されていた方の取組を紹介したページです。
FIG(Free and Infomative Guide)

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新型インフルエンザ

いつも寝る前に記事を書いてはブログを更新していたのですが、なかなか時間が取れなくなってしまいました。定期的に閲覧していて頂いている方には大変申し訳ありません。アクセス出来ない間に、掲示板のメンテナンスを怠ったら、削除されてしまいました。いい書き込みがあったのに残念です。

さて、インフルエンザが猛威を振るっています。この前、とうとう妻がかかってしまいました。最初は熱っぽいということだったので、早めに医者へ行ったのですがインフルエンザ検査は陰性。でも、翌日になって一時下がるのですが、また熱が38度くらい出てくるのです。

これは絶対にインフルエンザだ思いました。ところが、土曜日の午後。近所の個人医院に電話をしたけど、どこもやっていません。仕方なく病院に問い合わせたら時間外の診療をして頂けるというので受診しました。熱のある人がたくさん受診されていました。結局インフルエンザ。

タミフルの効果はすごいですね。飲み始めて3日目には熱が下がってきました。下がるのですがウィルスがいなくなったのではないので、感染の可能性があるので注意が必要です。5日間飲まなければだめだそうです。途中でやめるとタミフル耐性ウィルスになる可能性があるのでそこは守る必要があります。

5日間。看護生活でした。家族はもちろん近所に感染が広がっても困るので、部屋に軟禁状態です。妻が家の中で入れる範囲を決めて守ってもらいました。妻が触るところをこまめにアルコール消毒をしていました。

こんなに気を付けていたのですが喉が痛くなってしまいました。これは絶対にもらったと思い、医者に行きましたが熱がでないとインフルエンザの検査をしても結果が出ないとのこと。職場で感染しても迷惑と思い一日様子見るために休暇をとりましたが、発熱もなく無事乗り越えることができました。


過去のインフルエンザ記事

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終戦日記(昭和20年8月7~8日)

 大佛氏は8月7日の時点で知人の情報からほぼ正確な情報を得ている。8日に漸く新聞の朝刊に大本営発表が載る。「例の如く簡略なもので、「損害若干」」のみで革命的新兵器が登場したことを国民に伏せているという。
大佛氏は「本土作戦を呼号し、国民を奴隷にして穴ばかり掘っている軍人たちはこれにどう答えるか見ものである。部外の者を敵視蔑視して来たことの結果がこうも鮮やかに現れて、無感動でいるのが軍人なのである。」と軍に対して不満を述べている。
このころになると、敵機の進入に対しても日本軍は無抵抗。市民は布団を物干し竿にかけて機銃弾を防ぐという防御を行っている。

8月7日
雲一つなく晴れ、燃えるような空あり。10時近く警報発令。昨夕から水道がとまって今も出ぬ。P51三〇機が分散小編隊となり差が相模湾を旋回中と有り10時36分。布団を洗濯干棹にかけて機銃弾の障壁とする。敵機が悠々としている位置が判明していても味方は何もしない。そして国民はその無抵抗ぶりに諦従するように慣らされている。

来客から広島に敵僅2機、投下した爆弾が原子爆弾らしく2発で20万の死傷者。死者12万というが呉からの電話のことで、詳細は不明。トルウマンがそれについてラジオで成功を発表した。10日か13日に東京に用いるというのである。他の外電は独逸の発表に依ると云っているが、米国側では1941年からの研究が結実したと発表している。
大きな事件で閣議か重臣会議が急遽催されたが結論を見なかったそうである。次の効果を見てからのことに成るのだろうが、ロッキー山研究所のウラニュウムが物に成ったのだとしたら由々しいことで、戦争が世界からなくなるかも知れぬような劃期的の事件である。空想的な科学小説が現実のものとなり木っ端の如くこの命を破るわけであった。

別の知人に電話をかけて確かめるがよく知らなかった。火炎が1粁上り2キロ離れていて人が飛ぶくらいの威力が有る物という程度で投下せられたのは飛行場だという。どちらが真実かはわからぬが革命的に有力なものだということは疑えぬ。

自分たちの失敗を棚に上げ、本土作戦を呼号し、国民を奴隷にして穴ばかり掘っている軍人たちはこれにどう答えるか見ものである。部外の者を敵視蔑視して来たことの結果がこうも鮮やかに現れて、無感動でいるのが軍人なのである。話が真実ならば、国民は罪なく彼らとともに心中するのである。くやしいと思うのは自分の仕事がこれからだということである。

8月8日
広島爆撃に関する大本営発表が朝刊に出ている。例の如く簡略なもので、「損害若干」である。今度の戦争でV一号とは比較にならぬ革命的新兵器の出現だということは国民には不明のまま置かれるのである。来客(雑誌社)から他の作家の話、本の疎開の件で記者が談話を取りにいったら「僕は死ぬ覚悟をきめている。が、今の軍人や役人と一緒に死ぬのだと思うと如何にも悔しい」と云ったという。

配給を日割りにした。4人で米が一日三合半、馬鈴薯数個に大豆。

正午のラジオも広島に触れず、小型機の持って来るロケット爆弾がそうたいした威力のあるものでないという説明。警戒は必要だが安心しろというわけである。
過日北鎌倉で電車が機銃掃射された時、保土ヶ谷トンネルを出たところで小型爆弾を落とされ十数名かの死者あり。昨朝浅川近くで銃撃17名の死者を出したと知人の話。
別の知人は大阪からの帰り御油で汽車5時間立ち往生、浜松が艦砲射撃を受けていると知る。今後はもっとひどくなりほとんど移動が不可能となるだろう。

おまけに1機1弾で10万人の死傷者が簡単に出ることになったのだから寧ろ壮大な時代である。広島へ専門の技師が急行したというが、また東海道が漸く通じたとはいうものの状況しだいで無事につくかいつつくかという話で緩慢なことである。

この家では敵機が撒いた電波攪乱の錫の紙片を台所の蠅よけにつるした。光の反射が壁に水の影のように動いている。その下で平素の如く暮らしている。外の世界に向かっては腹を立て続けだが家の中は平和である。

新型爆弾に対する注意の放送があった。一機来ても必ず壕に入ること、高熱を発するから躯を露出させるな、掩蓋が必要だがない場合は布団でも毛布でもかぶること。はなはだ平凡。
夕方から60機ばかりのB29が入って来て帝都北部から東方に抜けた。どこをやったのかは例によって不明。

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終戦日記(昭和20年8月6日)

 昨日、8月6日は広島の原爆忌。テレビでも原爆についての番組が多くなる季節。毎日新聞では、年間を通じて原爆についての記事を掲載しているがやはりこの時期は多い。

 さて、この8月6日。鎌倉の大佛氏はどのように過ごしていたのでしょうか。

 当時、情報が統制され、一般国民に入ってくる情報は国家のフィルターを通ったもの、さらには遅れて詳細がわかるという状況。(戦艦大和が沖縄沖で撃沈したことを8月6日の時点で耳にしている。大和が沈んだのは4月7日。翌7日の新聞には巨大戦艦を特攻させた司令官の昇進を知らせる新聞記事。艦名は当時の新聞のこと伏せられており、大佛氏は大和かと推測している。)

 大佛氏の人脈から伝わる情報は世間よりも早いが原爆についての詳細は8月6日の時点ではまだ入手していない。
 関西からの来客に関西の状況を聞いていることを記録している。大阪大空襲の時、燃えかすが生駒山を越えて奈良に降ってくるという話は、以前に実際に見た人から聞いたことがある。夜中でも西の空が赤々としていたそうだ。

(この記事は抜粋、要約しています。)

8月6日
・朝に敵小型機編隊が入ってきて関東北部に警報。
・来客に奈良の近頃の状況聞く。
 三月堂は解体疎開。仏像を浄瑠璃寺など山陰の寺に疎開。
 桃の産地の平畑で買い出しに来た闇屋を殺して金を奪った事件。犯人は金を持っても食い物が手に入らず、宿も泊めなかったという。
 鹿の盗殺がはやっている鹿を捕らえて畑を荒らしたと春日大社に言うと責任逃れのため神社の鹿ではないという。鹿が3分の1に減。
 大阪の火事が奈良にも煙吹きつけ日の色が変わる。燃えた紙のたぐいが盛んに降る。
 
・出版社が解散。空襲により紙のストックを焼いたため。
・奈良から来た人、戦局に無知。地方に住む人の代表的な考えか。今やめたら大変なことになるという。2.26のごとく重臣を排撃し、青年将校のみで飽くまで闘おうと企てる革新暴動が起こるのではないか、という。宣伝せられた本土作戦に希望を持ちしきりと「新兵器」に期待をかけている。

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終戦日記(昭和20年8月5日)

 日々激しくなる空襲と、戦前の様な暮らしが崩壊する中での無力感、もとの暮らしと同様を求めるから苦しくなる。そんな思いも書かれています。少なくなる配給。比較的豊かだった大佛氏の家の食料も厳しくなっている。義勇隊と称して軍に山のあちこちに穴を掘らせる労働をしいられていることへの不満。軍の腐敗。激しくなる空襲。あきらめ。戦争末期の状況です。

(この記事は抜粋、要約しています。)

8月5日日曜
この夏の鎌倉海岸は海水浴禁止となる。煙草は1日から配給日に3本。僕らの努力はこれまでの生活をどうつなぐかと云うことだけにかかっている。12時近くから小型機の編隊。空襲警報がでている。
義勇隊の無法な不条理を怒ってもどうにもならない。各機関とも目前の必要にきりきり舞。明瞭な末期の形相。義勇隊は下から盛り上がって活動しているものではなく、徴集であり、肉体労働をしている。この苦痛と闘ってみるよりほかない。
高射砲声聞こえる12時35分
庭の胡瓜も少なくなり、午後は馬鈴薯ばかり。副食になるものがない(有る方のこの家で)

鎌倉駅で老婆の乞食が死んだ餓死ではなかった。京都駅なども乞食の巣。市中の芥溜が無くなったらしい。現在の配給状態では残飯も芥も出ぬ。旅客が弁当の食い残し新聞紙についた米粒までむさぼるので、飯を喰い出すと側に来て座り込み分けてくれという。男女ともにいる。横浜駅でも同様。

陸軍の准尉で輸送機の機長している者、台湾で一流の芸者を妾としている。宮崎の新田原にも女を囲い、妻を足利に疎開させている。便乗希望者から一名千円ぐらい取っている。台湾で10kg3円某の砂糖を内地に運べば1貫目千円近くなる。それ故の勢力。何とかして乗りたい人の弱みが金になる。外では皆が悪口をいうが、RCAのラジオが欲しいと云えば人の往来が多い会社は融通をつける。軍人の腐敗が全部の失敗の原因だったと内田大使が密かに漏らしたという。

特攻隊で二階級進級した者、不時着してルソンでいきていた。自爆したことになっており、帰還の望みなく部隊の残飯給与で生きている。当人は死ぬ機会を求めているという不憫な状況。宣伝せられた特攻隊の裏面にある悲劇。数名いるとのこと。死者であり戸籍もない。気の毒である。

警報出て9時帰宅。大編隊のB29。前橋高崎渋川に焼夷弾集中投下。150機。中部以西の各地にも同時に敵襲。宇部今治が大がかりにやられた。この日一日で本土進入した敵機の総数は千数百機。九州も連続的に毎日何百機。こういう日々というのは我々でさえはっきり飲み込めぬのだから、後世の平和の時代の人々には想像もつくまい。
死の天使は急遽襲い来たり、短時間でまた風が落ちたよう後のように静かな日常に戻る。人間は兎に角生き続けていくのである。無惨にぷつと切られるまで。

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終戦日記~戦争中の人々

 毎年、夏には戦争について考えて行きたいと思っています。ずっと取り上げたかったのが鞍馬天狗などを書いた作家大佛次郎(おさらぎじろう)の「終戦日記」(註1)。

 日記を読むと作家であったためか、食料も一般の人よりも恵まれていたようです。また新聞記者、知識人、軍人などとの付き合いも広く、一般の人が知り得なかった情報も得て記録しています。恵まれた環境におられたようですが、当時の国民からみた戦争と変わりゆく感情が克明に記録されています。

 一般の歴史書にはなかなか現れない庶民がみた戦争です。鎌倉に住み、そこでの体験する空襲や見聞きする戦争の惨状、軍人への不満、飛び交う迷信、敗戦時の気持ち、そういう当時の雰囲気をよく伝えています。

日記ですので、日を追って迫ってくる戦争を感じる事ができます。
少しずつ、抜き書き、要約などしてみたいと思います。

註1)もともと、昭和19年から終戦直後までを記録した日記。「敗戦日記」(1995.4 草思社刊)を増補改題して2007.7に文藝春秋から発行されたものです。

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蛙の行水

Pkaeru090627_1 どうです。この蛙の気持ちよさそうな姿。
このところ、梅雨の終盤と言うことで夕立のような雨がよく降ります。しかし、ついこの前までは全然雨が降りませんでした。そんなとき、ふと見ると庭の石の水溜め(もとは石臼)の中にトノサマガエルが行水をしていました。

庭には、アマガエルが住んでいて、雨が降る前にはよく鳴いているのですが、こんなに大きなトノサマガエルがいるとは知りませんでした。このあとも、時折現れては水につかっていました。
(2009.6.27の出来事です。)

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猿続報

Psaru090212_1  猿とのにらみ合いの後、トマトの被害。そしてトマト等を網で囲い込みました。その後は、猿の出没が無かったのですが、昨日久し振りに出没しました。と、言っても私が見たわけではなく、妻が犬の散歩をしていたら隣の屋根などでうろうろとしているのを見かけたというのです。

 追い上げ作戦をするまでは、家の当たりに出没する時のルートは私の家の小屋のトタン屋根の上でドンドンと暴れていました。来るたびに缶を叩いて追いかけたり、鍬を持ってにらみ合いを繰り返していると、私の家を避けるようになったようです。

 とはいえ、なかなか気は抜けません。

(写真は2009.2.12に撮影した物です。このときは、子猿をたくさん連れて出没しました。今、その子供が警戒心なく出没しているのでしょう)

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