カテゴリー「思索」の記事

食品の危険性から身を守る方法 その1

 食品の表示偽装や安全性を脅かす問題が、大きくマスコミに取り上げられています。こんな不安から身を守るには、どのようにすればいいのでしょうか。

 まず、知っておかなければならないことは、食べ物に「完全な安全」はないということです。”食べる”という行為にはリスクが必ず伴います。なぜなら、食べられる側にも防御をするものもありますし、そもそも自分の体とは別の異物を取り込む行為で危険な行為です。そのため、ある程度の毒に対しては解毒する能力を備えています。

 普段食べている野菜にも様々な発ガン性物質が微量に含まれているといいます。さらに、残留農薬を恐れるあまり、虫食いがいいということも言いますが、虫を排除するために、植物の体内に毒素を多く発生させるとも言います。

 とはいえ、毒素が怖いから食べないかというと、それでは生きていけません。必要な栄養素を取るというメリットと毒素がどれくらいあるかというデメリット。これを比較して私たちは食べるという行為のリスクを判断しています。

 このことを考えるとフードファディズムと言われるような「これを食べれば病気が治る」ということが、まやかしであることがわかると思います。つまり、両面があるのです。「病気が治る」成分が多く含まれているかもしれないが、食べ過ぎると「病気になる」成分も含まれていることもあるのです。

 また、日本人の歴史は食べ物獲得の戦いでもあったと言えます。身近にある食材をいかに食べるかという事を試行錯誤し、食文化を作り上げてきました。その結果として、伝統食には食材に猛毒が含まれていようと、無毒化して食べているものが多くあります。豆には毒素があり、時折、火の通っていない豆を食べて中毒が発生しています。しかし、伝統的に煮豆や味噌、醤油など、”加熱”という解毒の行程が入れば無くてはならない食材です。他にも、ワラビなどの山菜や猛毒のふぐの卵巣でさえ食材に変える方法が編み出されてきました。

 食べることにはリスクがあり、このリスクを低減するためには、偏り無くバランス良く食べることでリスクを分散させることが大切です。また、伝統的な食材の調理方法を守ることで、さらにリスクを低減することができます。

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外国産について考える

 中国で製造された冷凍食品に毒が混入されたという問題が連日報道されています。怖いことだと思います。中国産というよりも輸入食品ということで少し考えたいと思います。

 輸入品に頼っている日本は、命を外国に預けていると言えます。ここに2つの問題があると考えます。1つは「食べ物の質と量の問題」そして2つ目に「環境問題」でう。

1 食べ物の質と量の問題
 私は以前からこの状態が異常であると考えてきました。「工業を発展させ安い農産物を輸入して何が悪い」という意見が主流であり日本の一次産業は衰退してきました。そして、ついて加工食品も海外で製造される時代となっています。新聞などを見ていると、欧米や中国での健康志向による魚の需要の増加。中国の食生活の欧米化に伴う食用油の需要、オーストラリアの干ばつ。アメリカのバイオエタノール需要等、食を取り巻く環境は大きく変わっています。さらに飼料の価格高騰もあり、食料品の価格は今後高騰する要因が多くあります。

 こんな状況の中で食糧増産の切り札である遺伝子組み換え作物は海外では切り替えが進んでいるのですが、日本は毛嫌いされているため更に穀物の輸入にさえ厳しさが出てきている現状にあります。質と量の確保が難しくなっているのです。
 
 この厳しい状況にあり、日本では、国内で唯一自給が可能であった米については、消費が減る米は下落が止まらない状況にあり、大規模農家ほど苦境に立つという現象も起こっています。家庭にあっては輸入された食品が賞味期限が少し越えただけでも大騒ぎをしてすぐに廃棄されてしまいます。

2 環境問題
 食料の輸入における環境問題は、「海外の水を輸入」していることになり砂漠化の要因という問題や「窒素の輸入」することにより国内の窒素量が過多になり水質の悪化の懸念などの指摘があります。さらに 二酸化炭素の排出の問題もあると私は考えます。
 農業にも燃料が使われるため二酸化炭素の排出はあります。農業用機械を始め冬場の温室の暖房、輸送のための燃料など。しかし、輸入食品の場合はさらに遠い場所から飛行機や船で運ばれてきます。もちろん空港や港までもトラックで輸送され二酸化炭素の排出は国産のそれよりも多いはずなのです。

他にも色々とあるでしょう。このような状況を作りながら日本は海外依存度を高めてきました。それは何故か。企業の利益追求の結果(消費者が安くて便利でおいしいものを追求した結果)、そのような流れが作り出されているのだと思います。そして今回の毒入りの事件が起きました。安くて便利な物には何らかのリスクがあると言うことを私たちは余り意識していませんでした。今回の事件はこのリスクが最悪の形で現れました。食品メーカーの危機意識も低かったのでしょう。(例えば、テロリストは日本を恐怖におとしめるためには日本に来なくても海外での工作で可能であることが証明されたとも言えます。これは極論ですが・・・。)

 私たちは日本は食料の海外依存度が高いことを意識しておく必要があると思います。そして何を食べるべきかを自ら選ぶ力を養っておく必要があると考えます。少し不便でも「良い」と思う物を選択するか、リスクはあるが「便利」をとるか自己責任で選ばねばなりません。

 以前「消費における家畜化」という記事で書いたように、

 消費者の選択の幅は企業の都合によって制限されており、経済の中で完全な消費者の”選択の自由”があるかのような幻想こそが「消費(商品選択)における家畜化」が起こっているということなのです。

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食の記憶

 海外旅行をした時などをによく感じることですが、日本食がとても恋しくなります。ご飯に梅干しとか、お茶漬けとか。思い浮かべるものは人それぞれだと思います。

 先日、新聞の投稿欄だったか忘れましたがこんな話を目にしました。

 海外留学していた若い女性が日本に帰ってきて、「おにぎりが食べたい」と言ったそうです。しかし、それは家庭で作ったおにぎりではなく、コンビニのおにぎりだったと言います。日本のコンビニのおにぎりはおいしいと彼女は話したそうです。

 私も、コンビニのおにぎりは食べますが、そんなに食べたくなるものでもないのです。やっぱり自分で作ったり作ってもらったものの方がおいしい。この違いは何なのでしょうか。それは、やはりその人の食事の経験である食暦に由来すると思うのです。

 子供の頃から企業の味にならされてしまっているのです。「おふくろの味」という言葉があります。やがて「おふくろの味」は「店の味」となるのでしょう。いえ、先にあげた例から言えば、すでにその兆候があらわれています。

 それはコンビニや外食産業に「おふくろ」の果たした役割をまかせてしまった結果といえます。実家に帰って、母親の料理を懐かしむのではなく、懐かしいのはコンビニの料理や近所の総菜の店。家庭での料理の伝承が途絶えた結果だと言えます。

 「家事の外化」や「食の家畜化」が進んでいる一つの現象だと思います。味覚の画一化も今後進むでしょう。おいしいの基準がコンビニとなったり、家の料理がおいしく感じなくなったり・・・。個性の無い画一的な味覚が広がることを私は恐ろしく感じます。極論のようにも聞こえるかもしれません。でも冷静に身の回りを見渡せば、以前は各家庭の味だったものが市販のものに置き換わっているもの結構ありませんか?例えば、みそ汁、寿司、最近驚いたのは、おせち料理・・・。子供の味覚はその味にならされていきます。

この画一化された味覚は、世界の食糧事情へともつながっていると考えています。この話はまた次の機会に。


----過去の関連記事------

家庭の家畜化 

家庭の外化 

家庭の外化2 

家庭の外化、食の家畜化 

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消費における家畜化

 私たちが買い物をする時、商品を選択するのは誰だと思いますか?もちろん、「私自身」でしょう。選択は消費者の自由だとおっしゃる方もいるでしょう。でも私は、消費者の選択の自由は制限されていると感じます。

 私が一番最初にこれを感じたのは、ガラス瓶入りの清涼飲料水です。以前はガラス瓶を店に持って行くと買い取ってくれました。案外うれしかったものです。ペットボトルが登場した後でも、リサイクルが確立されていたガラス瓶を選らんで購入していました。ところが、今ではガラス瓶の商品がほとんど店頭から消えてしまいました。

 また、次の例はパソコンです。購入当時は最速の機種だったのに、短いサイクルでモデルチェンジを繰り返すため、気がつけば自分の機種は時代遅れになっています(陳腐化)。ここでしかたなく買い換える場合はもちろん消費行動を強いられていると言えます。
 一方、陳腐化したとはいえ使用目的に支障がないため使い続けていた場合でも制限を感じることがあります。たとえば、ソフトにセキュリティに致命的な不具合があったという情報があった場合、ソフトメーカーは古いバージョンのサポート対応を打ち切っている場合があります。しかたなく、新しいのを買ってインストールすると重くてストレスがたまります。最新機種に合わせてソフトを作って販売しているためです。あるいは、気がつくと世間で使っているOSが変わっておりソフト自体が販売していないという悲惨な事が起こっています。古い機種にとって最新のOSは荷が重く、結局新しい機種購入を検討を余儀なくされてしまいます。

 もうひとつ、農産物です。最近、中国産が毛嫌いされていますが、輸送技術の発展で色々な作物が大量に輸入され利用されています。中国産を止めることにより食品産業で困るところも多くあると思います。一方で国産はこれにより打撃をうけ衰退傾向にあります。国産が欲しいと言っていても気がつけば「こんなものまで中国産」という状況に向かっています。
 また遺伝子組み換え農産物を日本では禁止されていますが、世界では認める方向に進んでいると言われています。輸入に頼る日本では非組み替え農産物を手に入れることが困難になると思われます。欲しいと思っても手に入らなくなる可能性があります。

 このように、消費者の選択の幅は企業の都合によって制限されており、”消費者は王様”ではなく案外”消費者は裸の王様”なのではないかと思うのです。経済の中で完全な消費者の”選択の自由”があるかのような幻想こそが「消費(商品選択)における家畜化」が起こっているということなのです。

家畜化の定義を振り返ってみましょう。

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2 家畜化の要因
(1)家畜化がおこるための人間側の動機
   ・食料資源の確保という経済的目的
   ・(略)
(2)動物側の要因
   ・自然界の食物連鎖の中で低次にある草食動物が中心
   ・群生活をする種(人間が管理しやすい)
   ・人間の生活環境に好んで接近し、飼育環境に適応しやすい種。

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 次のように読み替えて考えると何か見えてくるかと思います。
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2 家畜化の要因
(1)家畜化がおこるための企業側の動機
   ・利益の確保という経済的目的
   ・(略)
(2)消費者側の要因
   ・経済活動の中で低次にある消費者が中心
   ・群生活をする種(企業が管理しやすい)
   ・企業の経済活動に好んで接近し、企業の提供する環境に適応しやすい種。

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 この状況から”脱家畜化”を試みようとするのは随分と難しいことだと思います。強いて言えば、消費者運動等の社会的活動により企業や社会の慣習を変えていかねばなりません。

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ITによる家畜化2

 毎日新聞に記者が書く囲み記事「発信箱」というのがあります。平成19年8月24日付けのこの欄にに私が以前から感じ、ここでも何度か触れている内容が掲載されていたので紹介します。「進化?それとも 中村秀明

 ここで語られていることは、私が以前「ITによる家畜化」や、「メール考」で語っていたものと同様の事です。
 記者はおそらく「退化」と言いたいのでしょう。私に言わせれば「家畜化的退化」です。自動車の発達による体力の低下が言われるようにIT環境の発達が脳の低下を招いていると私は考えています。

家畜化という点からみると、以下の4点に当たると思います。
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(2)生産能力の向上
   家畜化の過程で強い人為的淘汰が加えられるから顕著な向上が認められる。
(3)体型の変化
    生産能力の増大は必然的に体型の変化をもたらす。
(4)変異性の増大
   同じ家畜種の中に異なった特徴を持つ集団が増えてきて種内の変異性は
増大する。(利用目的により改良が進められる)
(5)自己防衛力の低下
   人間の飼養管理下におかれることによって外敵からの危険から保護され、餌
も自分で探し求める必要がなくなった。これにより自己防衛に関する本能的な感覚を鈍らせ退化させることになった。
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 つまり、ITによる家畜化という視点から上記を読み替えるならば
(2)生産能力の向上
      社会的なIT化が進み、必要に迫られてIT機器を持つ人増加。
(3)体型の変化
      IT化が進むことによる体力、コミュニケーション力等の低下  
(4)変異性の増大
    便利なIT環境に慣れた者増加し、さらなる利便性向上を求める。
(5)自己防衛力の低下
    自らの脳を使わずIT機器にまかせるため、自らの脳による情報の記憶、処理、収集する能力の低下(これは(3)にも含まれるのかもしれない)

と、言えます。自戒の念を込めて。

最後に、新聞の記事はリンクが切れますので、要約を掲載しておきます。
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「進化?それとも 中村秀明」(要約)

 最近のアンケートに今時の日本人が見える。
 携帯電話利用により、電話番号を覚えられない、もしくはわからなくなったり、忘れて困ったと言う人も増えている。これは、携帯電話のメモリー機能を利用し、手帳への記入や、かける度に電話番号を確認するという作業が抜け落ちている。そのため記憶が作られないからだ。
 しかし、その携帯も電話としての機能は薄れている。電子メール中心の利用で通話時間がほとんどない人が増えている。
 電子メールやインターネットを利用する人は確実に増加している。その一方でスポーツ人口や、旅行者(国内、外とも)は減少し、アクティブな活動は低下傾向にある。

 携帯電話、インターネットを利用の結果、最近の日本人は物覚えが悪くなり、会話でのコミュニケーションがをなるべく避け、運動不足で出不精になりつつあるらしい。行き着く先を考えるとすごく不気味。

毎日新聞 2007年8月24日 「発信箱」掲載記事より
-紹介されていたアンケートなど--------------------
 NTT番号情報の「電話番号に関する意識調査」
  覚えられなくなったと感じる人が:8割。
  わからない、忘れて困った事がある:5割以上。

 モバイルマーケティングデータ研究所の「携帯電話の利用に関する実態調査」
1日の平均通話回数は「ほとんどない」:44%。
電子メール「1日に50通以上メールを受けている:27%

 総務省の「06年社会生活基本調査」
学校以外でネットを利用する人は10歳以上の国民の約59%。
           (01年の前回調査に比べ13ポイント増加。)
スポーツ人口、旅行に出かけた人は国内、海外とも減少。
総務省は「アクティブな活動が低下傾向にある」と分析。
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自然と人の関係に思う

 「竹林と人間の関係に思う」の考えを広い範囲で再度思索してみました。
 人が植物を見る時、とても視野が狭い見方をしていると思います。花なら花。樹木なら樹木。例えば、日陰で目立たない植物は生存競争に負けていると見る人が多いのではないでしょうか。本当は自然や森は一つのシステムとして動物も含めて一体の物だと思うのです。そこで生活する生き物すべては森(自然)の一つのユニットとして存在しています。もちろんそれぞれの個にはそのような意識はなく生き抜くことしか考えていないのですが。

 私は、荒れた竹林に森に再生できるのか、その場合どのような植林をすれば人が管理しなくていいのか。そんなことを考えて宮脇昭氏の本などを調べたことがあります。しかし、そんな心配は無用でした。防災工事のため竹が切られ、根を枯らす薬で竹がなくなったところがありました。特に木を植えてもいないのに、数年後には雑木が覆っていました。つまり、竹林の日陰の中でも樹木の種子や幼木は、したたかに出番を待っていたのです。人間の浅はかな知恵などおよびもしないシステムがそこには存在していることを実感しました。

 人間が環境問題を見る時に、狭い視野でみるため長期的にみてどう影響するか判断に誤ることが良くあります。直接的な環境破壊だけではありません。たとえば、海外から持ち込んだ動物や昆虫をかわいそうだからとか買えなくなったから捨てる。子供の教育としてかわいそうだから逃がしてあげる。このような人の浅はかな行為がそこに存在する自然のシステムのバランスを不安定にし、破壊し別の動植物を絶滅に向かわせる可能性があるります。それが人の暮らしに跳ね返るそんな事もあります。クワガタ、アライグマ、カミツキガメ等々。もちろん外来の植物も。

 自然のサイクルは長いため、人は自然は弱い物と考え保護しなければと考えます。しかし、本当は自然は強くシステムの安定に向かって再生していきます。自然の1ユニットである人が暴走し短いサイクルで大規模な破壊をしなければという条件で。もちろん、システムの安定までの過程が人に危害が及ぶこともあるでしょう。人に有害なオゾン層の破壊や温暖化でさえ、案外自然の再生のための処置なのかもしれません。
 人はもっと自然の声を聞き、都会の中にいても自然の声を聞く心を育てる必要があるのでしょう。

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竹林と人間の関係に思う

 竹林で筍を掘りながら考えていました。竹と人間とは共生関係にあるのではないかと。例えば花の蜜を提供する変わりに蜂に受粉をさせている花のように人間も客観的にみれば、竹を利用していると思っていたら実は竹に利用されているのではないか。そんな思いが強くなってきました。

 人が筍を掘ることにより、竹林の中の土は少しずつ掘り返され、柔らかくなり自然と間引かれていく。また筍を掘ったり竹材を利用することによっても間引かれ竹林自体が明るくそして適度の密度を保つことができる。筍や竹材を人が採ることにより竹林自体が安定しているのです。

 地下茎で複雑に絡み合い竹は群として竹林を構成している。筍を掘ったり竹を切ることは木を切るのとは違い、爪や髪の毛を切るようなものだと思うのです。竹の本体は地下茎のネットワークで繋がれ、竹林として1つの単位のような気がします。

 一方、放置された竹林は暴走したように拡大し、増殖していきます。竹林の密度が高くなると竹は外へ外へと拡がるそうです。人の手が入らなくなったため、竹林は外へと広がり始めるのです。そして、古くなった竹林は竹の花を咲かせいったん竹林を枯らしてしまいます。
 これは、人が竹をコントロールしているようにも見えますが、もしかしたら、竹が人を利用して安定した状態を保っているのかもしれない。筍を掘るたびに自分が竹林を気がつかないうちに耕しており、それは気がつかない内に竹に利用されているのかもしれない。そんなふうに考えると何も言わない竹林に意識があるようで不思議な気分になりました。

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情けは人のためならず。

 2月15日の毎日新聞の「ポスト定年プラン」というコーナーに「恨みと悔い」というタイトルで心がけたい話題が書かれていましたので、内容を紹介します。

 ある90歳代の女性が「人を恨んだりするのはまだまだ自分がガキということ。」と言われたとのこと。女性は人に対して親切であり慕われているそうです。
 あるとき、このコラムを書いている方が人の悪口ばかり言っている人に出会い、閉口して先ほどの言葉を言ってしまったところ、気分を害されてしまいました。それをとても悔いたといいます。
 人に傷つけられる経験や傷つけるという経験は誰にでもあることです。その度合いがどちらが多いか少ないかと言うこと。恨みが転じて悔いとなる。90代の女性の言葉には悔いに押しつぶされないように他人に親切にし、心の平静を取り戻していたのではないか。良い歳をとるとはそう言うことなのではないかと悟ったそうです。「他人のためは自分のため」とも話されていたといいます。亡き評論家の大宅壮一氏の言葉に「美しく死ぬことよりも美しく老いることの方が難しい」というものがあった。

ざっと、以上の様な内容でした。「情けは人のためならず」ということわざもあります。傷つけることも傷つけられることもつらいことです。人生を振り返ったときに、その痛みを和らげるには、人を恨まず人に優しくする接することにより、人に慕われそれによって癒されることが必要なのでしょう。人を傷つけることをしてしまったら、それ以上に人に親切にしようと思いました。それがたとえ、傷つけた本人ではなく自己満足だと感じる人がいるかもしれないけれど、その親切はやがては自分へと形を変えて返ってくるはず。そんな風に新聞を読みながら考えました。

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賞味期限と家畜化

 賞味期限切れの物を使ったと言うことで某食品業者が存亡の危機になっています。これは今に始まったことではなく時折話題になる事件です。

 特に最近は、過度に賞味期限等を気にしすぎる嫌いがあります。食品が食べられるかどうかの判断をそれのみに頼る人が増えているように感じます。
 賞味期限は業者がおいしく食べられる事を保証した期間。消費期限は牛乳など傷みやすい食品に期限内に消費すべき期間です。

 しかし、期限が過ぎたからと言ってすぐに食べられなくなることはありません。例えば玉子の場合だと2週間程度になっています。ところが、これは生食時の消費期限でこれを過ぎても加熱すれば大丈夫です。割ったときの身の状況臭いで判断して、やばそうならば捨てればいいのです。京都であった玉子の期限切れ商品の事件の時は6ヶ月冷蔵保存した玉子を業者が割ってみて大丈夫という判断で販売されていました。この消費期限や賞味期限は業者や業界が実験などで安全であるとかおいしく食べられる期間を設定しているのです。

 事件を起こした業者を弁護しているわけではありませんが、過敏になりすぎている嫌いがあると私は思います。(細菌が多く検出されたのに・・・という話はいい感じはしませんが)。しかし、一方で無関心なこともあるのではないでしょうか?例えばマヨネーズの賞味期限。結構長い期間が書かれています。そんなに頻繁に使わないので随分と長く冷蔵庫に眠っているという方もあるでしょう。我が家でもそうです。ところが、あの賞味期限は未開封時ということです。もちろん牛乳も同じです。開封すれば、空気中の細菌に触れるわけですからそんなに長くは持ちません。でもすぐに食べられなくなるというものでもありません。だから大抵、「開封後はお早めに」と書いてあります。

 賞味期限等の日付で左右されるのではなく、自分の五感を使って”やばい”食品かどうかを判断する力を失っているのは事実だと思います。訓練されていない(経験不足)もしくは、親から知恵が伝達されていないためでしょう。これも「家畜化」している部分であると私は思います。ここで家畜の定義を見てみましょう。

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3 家畜化による変化
(5)自己防衛力の低下
   人間の飼養管理下におかれることによって外敵からの危険から保護され、餌も自分で探し求める必要がなくなった。これにより自己防衛に関する本能的な感覚を鈍らせ退化させることになった。
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 まさに、この部分です。「食べ物」について「危険な食べ物」を見分けるという「自己防衛に関する本能」が低下していると言えます。「脱家畜」を目指すなら消費期限、賞味期限は”絶対”ではなく”目安”として判断基準の1つという意識に変化させ、五感を使って判断できるように訓練する必要があります。

とはいえ、やはり食品業者が「まだ使える」と判断するのは問題があります。自分が食べるのではないのですから食品業界には高いモラルが必要です。

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メール考

 Eメールは、携帯電話で利用できるようになるまでは、手紙と電話の間の通信手段として便利なものでした。メールは電話ほど相手の都合に割り込むこともなく、手紙よりも早く届くという利点がありました。つまり、メールには強制感がありませんでした。メールを受け取った人は自分が都合がいい時にメールをチェックして読むことができたのです。ところが、携帯電話にメールが出来たことによりこの便利なツールは変質しました。携帯電話でのメールは着信を知らせる機能があるのです。これによりメールは次のような性質が付加されたと考えます。

  1 電話よりも相手の都合を考えなくなった。
  2 送信側の返信への期待→返信がないことへの不安。

 つまり、話が出来ない場所でもメッセージを送受信できるため、送信側が相手が今どういう状況かを考えることなく、ところかまわずメールを送信できる。受信側は着信音で呼び出されるため、仕事中でも手を止めて確認したくなる欲求に駆られる。さらに、送信側は相手が携帯電話を手元に置いていると想定しているため、返信への期待が以前よりも大きくなっており、返事が無かった場合には不安になる。受信側は返信しなければならない義務感を感じる。

 このような心理が働き。電車の中でもホームで歩いている人も手元の小さな画面を眺めているのではないでしょうか。

 たとえば、喫茶店で最近よくみる風景は、恋人とおぼしき二人連れがテーブルを挟んで、二人で過ごしているにもかかわらず、それぞれが手元の携帯電話の画面に夢中となっている。まさか、二人で文通しているとは考えられない。(もしそうならさらに怖い状況です。)目の前の恋人との時間よりも遠くにいる友人から届くメッセージにすぐ反応することを大切にしているそんな風に見えるのです。

 目の前の現実よりも電子メディアを通してやってくるものを優先する。これも家畜化の兆候かもしれないと思います。電子のネットワークに繋がれている。目の前にある世界よりもネットワークの枠から出るのが怖くなったら注意する必要があると思います。

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関連記事(2007.6.30追加)

竹工房オンセ 「携帯電話」http://once.blog.ocn.ne.jp/ajimu/2007/06/post_4ea5.html

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